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「国」

生活の時間帯が後ろ後ろにずれていっている。起きて少しして食事をとると10時とかなのである。眠気がないわけではないので寝ようと思えば寝られるのかもしれないが、さすがに起きて食べて寝るのは気が引ける。

 

寝静まった空気というのは本当にあると思っている。騒音の有無の話ではない。同じ暗さでも7時の暗さと12時前の暗さは違う。

 

寝静まった空気の中では穏やかでいられることが多い気がする。もちろん具合を崩すこともあるが。波の立っていない状態。見たい動画を見て、聴きたい音楽を聴く。食べたいものを食べる。おれは自由だ。

 

崎山蒼志の「国」という曲がある。「五月雨」で一躍有名になった彼である。「『万人受けしない』と万人に思わせられるアーティスト」みたいな言われ方もした。しかし実際「五月雨」以降はひっそりと活動をしているように思う。もちろん十分に大物ではあるのだが。その崎山蒼志の「国」という曲が先日歌詞つきで再びYouTubeにアップされた。

 

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やさしい詩だなと思った。詩は誰かに語りかけているようである。「君」は誰を思いながら歌っているのだろうと考える。彼自身なのかもしれない。人にはそれっぽくアドバイスができる。自分が苦しいときも、人を支えることはできてしまったりする。悩みがあるときには、その悩みを持った他人にどうアドバイスをするか考えろという。客観視しろということだろう。人にはやさしくできても自分にやさしくできない人たちがいる。ストイックとかいう話ではない。自分を見るための取っ掛かりとしての他人。その想像上の他人に私たちはいる。おこぼれをもらっている。

 

アーティストの主題というか、何をみているかみたいなのがあると思う。たとえば「自分」かそれ以外かという区切り方。わかりやすい大御所を例に挙げるなら、サカナクションは前者で、Official髭男dismは後者だ。似た話として「(ぼくには言えてない)ありがとうばかりで」(『ココロノナカ』)と書いた野田洋次郎と「ごめんなさいばかりで」を思う人とがある。何かとてもテリングじゃないだろうか。

 

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客観視をしてみれば、というか遠くから見れば大したことじゃないことばかりなのかもしれない。楽観的だろうか。客観視を持ち上げているのではない。客観とかそういうものが好きそうな顔をしている人間は嫌いだ。ただ、自分を見ていると自分に酔ってしまうんじゃないかなとは思う。かわいそうな自分とか、最低で救いようのない自分とか。自分が「人 カッコ イコール自分」を見ることに意味があるのかもしれない。目線を下げてお腹のあたりをじっと見てみるのではない。鏡越しに自分とにらめっこするのとも違う。どう見ることなのだろう。わからない。言葉の使い方が雑だ。「遠くから見る」という自分の先の表現に何かヒントがある気はする。主観・客観という二分法ではない何かだ。

 

扱いきれないトピックに手を出してしまった。あんまり理屈っぽくすると整理のなってなさと説得力のなさが目立って気分が悪くなる。粘土みたいなもので、触りすぎると乾燥してダメになってしまう。自分が納得できればよいのだ。大事なのは自分にとっての真実だと思う。憎しみと後悔と未解決事件と。