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朝と肝(タレ)

朝は判断能力が高いらしい。朝の大切さというのは、幾つになっても身の回りの誰かしらが言っている。実際言われていなくても言われている気がする。自分を見張っている。

 

そういうわけで朝起きたら料理をすることが多い。それもカレーとかパスタとか、子供が夢に見るようなやつ。体力的に余裕があるから作っているのかもしれない。自分の一番マシな判断能力をどこに使うのかというのは、けっきょく自分が何をすきかということなのだと思う。本を読むもよし、仕事をやるもよし、恋人に連絡するもよし。起きた時一番にしたいことを思い浮かべてみるのは幸せかもしれない。眠れることが前提ではあるが。

 

朝が憂鬱ではなくなっていることに書いていて驚く。強制された朝ではないからだと思う。起きたタイミングがたまたま朝であったということ。すると差してくる朝日が気持ちのよいものな気がしてくる。それでも、とにかく明るい外が苦しいという時もあったと思う。少しは前進しているのだろうか。

 

そういうわけで作った肝(タレ)を食べながらこれを書いている。飲み物は生茶。2Lボトルが9本入ったやつを2箱毎月定期配達をお願いするようにした。今月からだ。そろそろ2箱目も全部なくなる。

 

肝は具合がむずかしい。どれくらい食べるのか、いつ食べるのか、どれくらい火を入れるのか。タイプする手を止めて箸を取ったらもうなくなっていた。お腹にじんわりとした痛みがある。あとでトイレに行く。

 

むかし恩師が「私の時代はみんながすきと言っているものをすきになるのはカッコが悪いことだった」と話していた。「みんなと違う思想を持っていることを嫌うのではないか」みたいなことを私が発言したことに対する返答だった気がする。今は自分が恩師の言うように思っている。時代の問題ではないだろう。人の問題だ。知ってるようなものをすきなものに挙げることを恥ずかしく思う。いわゆる嫌な奴である。気まずい思いもさせたくないので基本的に話さなくなる。そうやって社交の機会がなくなっていく。「気が合うね」が最上級の好意の言葉になる。

 

家庭教師の面接と体験授業とをやった。面接の胡散臭さにうんざりした。就職もこんなもんなのだろうかと思うと頭が痛い。体験授業は疲れた。その晩と翌日眠り倒した。自分が大切なことを話していると思う時には生徒の反応が悪い。きっと答えを教えてくれる具合の良い年長者が欲しいだけなのだろうなと思う。ニーズに応えることが重要なので、できるだけ相手の望む人間になっていこうとは思う。継続が決定すればだが。同年代で同大学でも語る相手がいないと感じているのだから、求めすぎなんだろうと思う。それでもいつか運命的出会いがあると思っている。甘えている。

 

別に仮に呼ばれても行かないが、母校の後輩に何か話すとしたら自分は何を語るだろうと考えることが多い。色々と言いたいことはある。でもけっきょくのところそれは言って伝わるものではないのだろうと思う。そして語れば語るほどダサくなっていく。恩師に言われたことは当時何ひとつ分かっていなかったと思う。今だってきっと分かっていないのだが。「いっぱい後悔してください」とかどうかなと思った。微妙だと思う。こういうことを考えているから呼ばれないし成功もしない。

 

今日は悪くない朝だ。いい一日になったらいいね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=rBLSqKioHXQ&list=RDrBLSqKioHXQ&start_radio=1

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